ふんわりした生活

本を読んだり仕事でやってみたことなどの日常から、ふんわりと気づきなどを書いていきます

年を越えることなど

年は変わり、あっという間に2017年にワープした。 なんというあっけなさ。 ついさっきまで紅白歌合戦なんて見てたのに。 何が違うんだ?何も変わってねぇよ。

子供の頃の認識

物心ついた頃、紅白歌合戦のあとのカウントダウンと年が変わった瞬間に立ち会ったという特殊な雰囲気からハッピーというよりテンション上がるーという感じだったのを覚えている。

一緒に起きていた弟に最初のあけおめを交わして、深夜番組で流れていたアーティストのライブを観て。

なんとも言えない高揚感があった。 そしてこれは大学生になった頃のバイト終わりからの初詣につながっていくわけだ。 よくもまぁ、何が楽しかったのかわからないあの雰囲気。 大味だったことだけはいまでも分かる。

家庭を持ってから

10数年間前のこと、家庭を持ってからは、少し様子が違う。妻と今年もがんばろうみたいな初々しい何かがあった。 まだ何も諦めていない何かがそこには横たわっていた。それに、そこまで未来を見据えるような能力はあいにく持っていなかった。

さらに子供ができてからは妻との関係性も変わって行った。帰省先の妻の実家での過ごし方も、信じられないくらい早く寝てしまうことも、だ。 紅白歌合戦?何だそれ、美味しいの?観るわけねぇだろボケ。 最優先事項は妻との時間でも自分の事でもなく、子供になっていった。

現在の年越し

もはや紅白歌合戦はBGMでしかなくなってしまった。それでも、何組かはじっくり聴きたいところもある。しかし、それが叶うかどうかは子供達が寝静まるかどうかにかかっている。 寝なければ、ただのBGMだ。 下手をするとテレビには消えてもらうしかない。

もう、子供の頃に感じていた特殊な雰囲気は一切ない。暮らしがそこにあるだけ。ただそれだけだ。

2017年を迎えて

年越しと言えば帰省先なので、ツイートすることすらハードルが高い。LINEであけおめ?するわけねぇだろ。年賀状?もちろんつくってねぇよ!!

年越しすら日常となってしまった家庭持ちには、何か特別な出来事にすべきではないか?という強迫観念すら湧き上がってくる。もちろんしねぇよ!!

もっとも、昭和の時代に年越しが特別な出来事だったのは絶意的な貧しさがあったからだろう。そこへ経済的な側面がどかーんと乗っかって、現在のようなカタチになったのだと思う。多分。

だから、絶意的な貧しさが排除されたとしたら、そこには単なる日替りということしかないのだ。

10歳の息子に言った話

12/31の昼間に帰省先で10歳の息子と散歩をしていた。 すると、息子がふいに質問をしてきた。

どうして年を越えないといけないの?

これ、皆さんは考えたことがありますか? 時間が経過するから?まぁそうですよね。しかし。小学生の息子には納得のいかないことなのでしょう。 そんなことは分かってるが、時間が経過する話じゃねえよ、ということです。

とっさに、

地球の自転や公転に何かあるわけじゃないけど、人間が生きていく上では区切りがあった方が分かりやすくね?

こう答えたのでした。 ふーん、なるほどね、ということで終わったのですが、大丈夫だったかな…

とりあえず、区切りをまたひとつ越えたのだな、ということだけを思っております。

区切りを越えて

除夜の鐘が遠くに微かに聴こえています。元々なんのために鐘をついているか?わからないままついているか皆さん。それでいいです。わたしも分かりません。

2017年も良い年でありますように。 今年も皆んなで生きて生きます。営みが、あるだけです。