ふんわりした生活

本を読んだり仕事でやってみたことなどの日常から、ふんわりと気づきなどを書いていきます

あなたのお子さんを人質にとった、いますぐ学びを用意しろ。お子さんがどうなっても知らんぞ!

こんばんわ。みなさん、今月もそろそろ終わろうとしています。今月は何を学びましたか? いやいや、堅苦しいことではなくて「月曜から夜更かし」でやっていそうなくらいの「今月学んだこと」という感じで思い返してみてください。いかがでしょうか。

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ここから唐突に堅苦しい話をしますが、2020年度には知識や技能といった基礎学力だけではなく、それ以外に取り組んだ事柄や姿勢、そこからどんな気づきや学びを得たかというようなことを大学入試の評価として用いるような話があります。ご存知です?

現代のこどもたちは、これまでに増してデンジャラスかつクリエイティブな時代に置かれています。ごくごく当たり前に音楽を聴き、場合によってはスマホアプリでトラックをつなぎ合わせて曲を完成させます。写真をスマホなどで撮影して、自分の好きなかたちに編集していきます。カジュアルに動画を撮影し、そこへ先ほどの音楽や写真を組み合わせて、ひとつのストーリーをつくります。 こどもたちはそうやって制作したものをインターネット上へ恐る恐る投稿し、全く知らない第三者からのフィードバックを受けます。あるときは非常にポジティブな。あるときは吐きそうなほど酷いネガティブなコメントをもらいます。そうやって、いままでにはないような体験を積み重ねていっています。

特に、現在の小学生にあたるこどもたちは、「デジタルネイティブ」すら当てはまらない、死語の世界へ追いやるほどの「メディアミックスネイティブ」とでも言いそうな世界に生きています。デジタル、モバイル、オンラインは当たり前で、そこからさらに何を自分なりに考え、創造し、世に送り出すことができるのか。そこをいつも見つめています。親であるわたしですら、どこへ向かうのか追いつけるのかといつヒヤヒヤしながら見守っています。

小学生の高学年にもなれば、すでにウェブ上の情報がすべて正しいとは限らない、妥当な情報は自分で見つける必要があることを知っています。親しい友人から聞いた話ですら、ウェブでの照合、仮説から実際に実行して結果を確認するといった手順を自然に行っています。もはや、これまで中学はおろか、大学で身に着けてきたような事柄を小学生のころから常に身に着けた状態でなければ事故に遭遇してしまうという状況だと感じています。高度すぎて、すでにわたしの両親は着いていくことができません。

これは逆を返せば、基礎がないのに応用だけ経験がある、という状況だととらえています。そのため、そこまで高度な体験をしているにも関わらず、簡単に大人のウソにかかってしまいます。これはこどもたちの日常の体験が、学校などで得られる「基礎的な学び」を大きく凌駕してしまっているためではないでしょうか。そのため、「基礎的な学び」を通して観た世界ではウソであることが明白な事柄に対して、トライしようとしてしまうのだと考えます。

ではなぜ、学校で得ることができる学びをもっと欲しがらないのでしょうか?答えは簡単です。自分の欲求に対応していないからです。そのため、自然と優先度が下がるわけです。

小学校や中学校、高校の授業を参観させてもらうと、先生と生徒が相互的にコミュニケーションをしながら理解を深めるような手法を採用していることがよくわかります。わたしのようなアラフォーのおっさんが受けてきたそれとは、すでに一線を画す授業です。こどもたちと相互にひとつの事柄について何が課題や問題なのか、それを解決するための方法は何なのか、そしてその方法を実践すると結果はどうだったのか。そうしたことを実際に授業に取り入れている例をみました。それであっても、まだ改善の余地があるのです。それは、こどもたちに「基礎的な学び」の重要性を説くことだと考えます。

なぜ、小学校に通ってまで、最悪の場合はいじめなどの酷い目にあってまで通う必要があるのか。いじめにあっている場合は通う必要は全くないと個人的には考えていますが、義務教育というのがなぜ「義務」になっているのかをこどもたちにも、そしてその保護者にももっと考えてもらうべきではないかと。

わたしはIT関係のフリーランスですので専門的なことはまったくわかりません。しかし保護者として授業参観に行っても「なぜ小学校が存在しているのか」といったようなことが語られたことは一度も経験がありません。わたしはこのことについて、こどもに自分の認識を語ったことがあります。強烈にウザいやつですね。しかし、そのウザい話はわたしが大人になってから気が付いた、第三者的な観点から見た学びについてでした。

ここからはさらに私見が強まります。マジでうぜーという方は読まなくて大丈夫です。

なぜ学ぶのか

生まれると、1歳くらいまでは大抵の場合、母親がその子の面倒をみます。この期間、こどもは最低限、生物として生き延びるための方法を学びます。からだの動かし方や、食事をすること、排せつをすることを学びます。そこから3歳くらいまでは人間と呼ばれる動物として最低限生き延びるための方法を学びます。歩くことや、喜怒哀楽といった感情を表現すること、食事を自分で摂取したり排せつをコントロールすることです。

3歳を超えると幼稚園に通う方もいらっしゃるでしょう。ここでは、人間が集団生活を送る中で最低限生き延びるための方法を学びます。他人や年上のひととの接し方、距離感、表現方法の拡大などです。この表現方法の中に衣服を着たり挨拶したり、考えを最低限伝えたり、時間内に食事を済ませたり、危険を察知してアラートをあげたり、逃げたりといったようなことも含まれると考えます。ある意味で、そうした行動を主体的に行うことは自己表現のひとつだと考えるからです。

小学校に入るとさらに世界は変わります。小学校になると、さらに体系的に学びを得ることができるようにガイドラインが敷かれています。いわゆる指導要領です。その内容を読んだことはありませんが、小学校では人間社会で生き延びるために最低限必要な知識と技能を身に着けること、そして自分をさらに開発するための気づきやコミュニケーションの方法を学びます。ここまでで、ほぼ人間社会に出てもぎりぎり生存できるレベルになるはずです。というのも、大人になってから仕事のような専門的な事柄以外は、小学校のときに身に着けたことでほとんど事足りるからです。考えようによっては、そのレベルに到達させるために全国にそうした教育機関を設けているというのは凄まじいことかもしれません。もっと小学校の重要性を理解していたら、もっと深い学びにつながり、さらに人生が楽しくなったかもしれません。

ですから、保護者の方はこどもに伝えてあげるべきでしょう。「あなたが勉強したくないのは結構なことだけど、この世界はあなたを人間として認めているのだ」ということをです。どうしても、是が非でも、一日でも長く生き延びて、あなたがこの世界を変えていってほしい、そしてそのために必要なものはすべて用意してある。そういうメッセージがあるのだと、わたしは思い込んでいます。それを確実に遂行するためのパワフルなルールのことを「義務教育」と呼んでいるのだととらえています。

おわりに

大人の、しかも実際に身体や頭を動かして社会に貢献できる年齢層の人数が減少傾向にあります。上司だけでなく、先輩たちもかなり高齢化がすすんでおり、後輩といっても30代ばかりが目立つようになってきました。そうしたかなり切羽詰まった状態で、大人からこどもに伝えやすいのは危機的な側面ばかりになるかもしれません。こどもたちは言われなくともすでにそのことは把握しており、どうすればマネタイズできるか、どうすれば生き延びることができるかを日常的に探っているようにも見えます。そのわかりやすいアウトプットがYoutube動画の視聴だったり、ゲームだったりするのかもしれません。多種多様な動画やゲーム内でのコミュニケーション、イベントなどから、何が「自分が生き延びるための方法になるのか」を感じ取っています。Youtuberが置かれている状況や視聴回数、動画のクオリティ、関連動画などから冷酷に評価し、何が求められているのかを純粋に考えています。面白いとは思いませんか?

小学4年生が10年後の自分がどうなっているか、そしてどんなメッセージを送りたいかという発表を拝見したとき、あまりのリアルさに衝撃を受けました。何で生計を立てているか、という発表がほとんどだったからです。もっと無邪気な発表を想定していたわたしには刺激が強すぎました。逆に将来の自分を語ることができなかった生徒は、そうした会話を家庭でしないのかもしれません。こどもたちは高齢少子社会にも驚くほど危機感を持っています。ジジイババアばかりの世界で、どうやって生きていくのか。そして地域の強みを活用しなければ世界で戦うことができないことも感覚的にとらえているということも見て取ることができます。英語が読み、書き、聴き、話すことができるだけではフツーすぎて意味がないということもわかっているようです。本当に必要とされているのは4技能ではなく、何が表現できるのか、だからです。

保護者の世代が金銭的、家庭的にこどもたちの世代をサポートしづらくなっている現代において、こどもたちは自分たちで生き延びる戦略を練っています。保護者にできることは、彼ら、彼女らの邪魔をしないこと。最低限の快適さを提供すること。そして、過去と現代の解釈をかみ砕いて伝えることくらいかもしれません。もはや保護者が頭ごなしにこどもに何かを発信すればよい状況にはありません。背景を伴わないメッセージが何も伝えないことについては、保護者の方も仕事のうえで既に痛いほど経験してきたことではないでしょうか。それを念頭に置いたうえで、こどもたちと「いま」について対話していくようにしましょう。そうでなければ、基礎をおろそかにしたこどもたちが容易にドツボにはまる様子を指をくわえて見ているほかありません。

具体的に何をしたらいいか?それは、いっしょにゲームをしたり、クソつまらない動画を観てコメントを言い合うなどでもいいのではないでしょうか。大事なことは、勉強をすることではなく一日をどう過ごすのか、なにを目当てに過ごすのかですから。では、残り少ない5月も大いに学びましょう。こどもから学ぶことばかりですね…